はじめに:ジョジョ好きにはたまらないっ!
ご存知の方も多いと思いますが、第6部のスタンド:ジェイルハウスロックの元ネタ映画です。どうでも良いですが、第6部は特に映画元ネタのものが多いですよね。素数を数えちゃったりとか。。。
映画としては斬新な試みが見られます。時間軸を全く逆回転にさせた演出と、モノクロとカラーの切り替え、なにより記憶が10分しかとどめておけないのでメモと刺青に頼る、という設定の妙で、一度観たら忘れられない映画になることうけあいです。(ストーリーは初見では難しいですが)
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あらすじ&作品概要
ある日、主人公・レナードの妻が、自宅に押し入った何者かに強姦され、殺害されてしまう。レナードは現場にいた犯人の一人を銃で撃ち殺すが、犯人の仲間に突き飛ばされそのときの外傷で、10分間しか記憶が保てない前向性健忘になってしまう。
復讐のために犯人探しを始めたレナードは、自身のハンデをメモをすることによって克服し、目的を果たそうとする。出会った人物や訪れた場所はポラロイドカメラで撮影し、写真にはメモを書き添え、重要なことは自分の体に刺青として彫り込んだ。しかし、それでもなお、目まぐるしく変化する周囲の環境には対応し切れず、困惑し、疑心暗鬼にかられていく。
果たして本当に信用出来る人物は誰なのか。真実は一体何なのか。
監督 クリストファー・ノーラン
脚本 ジョナサン・ノーラン
出演者 ガイ・ピアース、キャリー=アン・モス、ジョー・パントリアーノ
クリストファー・ノーラン記憶障害の疑似体験が炸裂!
『インセプション』でも時間と空間を使った壮大な世界観を表現したクリストファー・ノーラン。本作では登場人物や、扱う世界こそ『インセプション』よりは小ぶりですが、見事と言うしかない映画としてのまとまりがあります。
具体的には、記憶障害という設定と、時間逆再生という手法が合わさって、記憶障害の疑似体験をさせているのですが、これがもう、凄まじい新体験です。もちろん実際には記憶があるので、ストーリーの見通しがつきそうではあるのですが、複雑なストーリーと次々出てくる新事実によって、ちょうど記憶がまとまらないうちにシーンが切り替わるのです。もう観客はクリストファー・ノーランの仕掛けにまんまとはまるしかないのです。
memento mori
死を想え、自分が必ず死ぬことを忘れるな、というようなラテン語です。善良な人びとに対する警句であり、キリスト教の死生観、世界観を表しているとされています。
古代ローマでは、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」と伝えられる。将軍の後ろに立つ使用人は、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していた。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。
ただし、古代ではあまり広くは使われなかった。当時、「メメント・モリ」の趣旨は carpe diem(今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスであった。ホラティウスの詩には「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)とある。
この言葉は、その後のキリスト教世界で違った意味を持つようになった。天国、地獄、魂の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきたためである。キリスト教的な芸術作品において、「メメント・モリ」はほとんどこの文脈で使用されることになる。キリスト教の文脈では、「メメント・モリ」は nunc est bibendum とは反対の、かなり徳化された意味合いで使われるようになった。キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘引となった。
では、本作『メメント』にも同じメッセージが込められているのでしょうか。この映画では善人がほとんど出てきません。全員が他人を利用しようとして生きています。悪人だけなのは徹底されていて、物語の後半になるにつれて、またか、お前もか、という流れでどんどん物語が加速していきます。
最後の『お前もか』はとても切ない感情とともに観客の口から出ることになります。このオチは、見終わったあとは、『クリストファー・ノーラン、若いぜ』、と思っちゃうかもしれません。
そうすると、このmemento mori は誰に向けての警句なのでしょうか。10分毎に『記憶の死』が来る主人公レナード?それとも悪役たち全員に向けて?ひょっとすると観る手である私たちに向けてのものなのかもしれません。
いつか死ぬことを忘れるな
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